今からおよそ二百年あまり前、
アダム・スミスはアメリカという新大陸にある
イギリスの植民地の経済的な発展と繁栄を
横目で睨みながら、『国富論』という本を書いた。

その本の冒頭でスミスは、
「一国民の年々の労働は、年々消費される生活に必要な必需品と、
これがあれば便利だというサービスを提供する源泉であり、
これらの必需品やサービスは常に労働の産物であるか、
でなければ、その産物を売って
他の国民から仕入れた物である」と述べている。

ややまどろっこしい言い回しであるが、
要するに、「あらゆる富のつくり手は人間であり、
人間の労働によって生活に必要な富がつくられる」
という認識からスミスの経済学はスタートしたのである。

こんなこと常識じゃないか、と今の私たちなら思うかもしれない。
ところが、十八世紀の人々は、
「労働が富だ」とは思っていなかった。

金銀、金銀貨、および宝石などの財宝は、
いつでも、どこででも、
必要な物を手に入れるために使えたので、
富といえば、金銀財宝のことだと考えていた。
スペイン人やポルトガル人が末知の国に到着すると、
「金山はあるか。銀はどのくらい産出するか」
ときいて、もし金や銀がないとわかれば、
そこは避けて通ったそうである。

そうした十八世紀の常識に対して、
労働力があらゆる価値の源泉であり、
金貨でワインが買えるなら、
ワインで金貨を買うこともできるじゃないか、
と指摘したのはほかならぬスミスである。