昭和59年に発刊した邱作品のエッセンス集
『メシの食える経済学」の「まえがき」で
邱はこの作品についての感想を書いています。
前回紹介した文章に続く文章です。

「私の講演会には異常に多くの聴衆が集まるが、
『それは私に人気があるからではない。
 聖徳太子のおかげですよ』と
私は冗談をいうことがあるが、
もし私の語り口に人々が共感を呼ぶとすれば、
それは私が経済を語るに際して、
天下国家からスタートせず、
個人のポケットから出発していることに
かかわりがあると思う。
私の経済学は、論語の表現をかりれば、
『治国平天下』の経済学でなくて、
『斉家』の経済学なのである。

昭和33年に『婦人公論』誌に執筆した
『金銭読本』からはじめてちょうど4半世紀に、
私は何十冊かの金銭分野の作品を書いてきた。
作品というと、
奇異に感ずるジャーナリストやアーチストは
多いかもしれない。
日本のジャーナリストの中には、
傲然孤高の精神が根強く、
金銭や利殖を見下す気風があるので、
金銭利殖を扱うことを
一種の創作活動と見たがらない傾向が強い。
しかし、金銭を扱うことにも、
セックスを扱うのとまったく同じように、
独創性も必要なら、表現力も必要である。

さらにはまたその作品が感動を呼ぶとか、
その中を流れるアイデアや知恵が
読者の役に立つことも必要である。
この意味で、経済に関する文章に対する評価の在り方も、
文学に対するそれとそんなに遠く
かけはなれていないのではないかと思う。

また一方において、経済学の徒は
天下国家を論ずるに熱心なあまり、
個人のふところや家計の経済を無視しがちである。
したがってお金儲けの話をすると、
変な目で見たり、バカにしたりするが、
経済というからには
それを心得ることによって
生活が豊かになるコツがわかるのでなければ、
意味がないであろう。
その点、私の金銭学は読んで実行に移せば
金持ちになる内容のものであるから
高邁な空理空論の経済学と区別する必要を感じた。
『メシの食える経済学』
というタイトルのついたユエンである。」
(『メシの食える経済学』昭和59年)

ここに書かれている文章は
邱著作の全貌や性格を実によく伝えている
と思います。