中央公論社が『中央公論経営問題』を
月刊雑誌『WILL』に切りかえたとき、
邱は連載を頼まれ、
昭和57年5月の『WILL』の創刊号から
『金銭処世学』の連載をはじめました。
連載のはじめが「息子に聞かせたい“お金の学問”」で、
邱は執筆に望む自分の考えを述べています。

「私はこの30年余り、お金を個人単位、せいぜいのところ、
企業単位でとらえる形で、何十冊かの本を書いてきたが、
ジャーナリズムの私に対する風当たりは冷たいものであった。
どうしてかというと、
ジャーナリズムで禄をはんでいる人たちには、
第一に、天下国家という意識と使命感があり、
個人の財布の中身に奉仕するような考え方を
さげすむ気風があるからである。

第二に、そういう人たちも、しょせんサラリーマンである以上、
どんなにジタバタしてもきまった僅かな収入しか得られず、
他人が自分とかけはなれた発想で、
自分たちの想像をこえる収入を得ることに対して
許せないという気持ちが働くからである。
わかりやすいコトバで言えば、嫉妬と言いなおしてもよいだろう。
(中略)私としては、大ジャーナリズムが承認した小説家から
そういうジャンルに入り込んだので、
大ジャーナリズムもどう扱ってよいか困惑し、
長い間、存在を無視することによって、片づけられてきた。

しかし、私たちの生活の中で、
経済の占める比重が大きくなったせいもあって
だんだん私経済の存在を無視できなくなっている。
文化と経済の隔たりも昔ほどではなくなってきている。
ここまでくれば、経済学の中には
『金銭学』というジャンルがあるんだと主張しても、
耳を傾けてもらえるのではないだろうか。
それは、大学でも教えてくれないものだし、
家庭でも教えてくれないものである。
同じことを逆に言えば、誰も教えてくれないから、
社会人として世にでていくうちの息子たちには
ぜひ聞かせたい学問だと私は思っている。

ついでに申せば、日本語で『学問』というと、
大学教授が講壇の上から教える教材のことだが、
中国語では、“ノウハウ”のことである。
たとえば、『料理屋の経営にも、深い学問がありますね』
と中国人は言う。
お金の扱い方にも、当然ノウハウはあるわけだから、
このテキストに『学問』と云う字がついても
おかしくはないであろう」(『金銭処世学』)