日本が石油ショックに鍛えられ、
省エネと自動化で力をつけたことで
邱は台湾で事業を撤退するピンチに追い込まれました。

「マクロ的に説明すると大体、以上のようなことになるが、
これは海外に工場を移してきた私にとっては
全事業をスクラップ化してしまうほどの
驚天動地のできごとであった。
なぜならば、コスト・インフレを
日本内地にいて克服することができるなら、
工場を海外に移す必要はなくなってしまうからである」
(『失敗の中にノウハウあり』)

そして昭和55年から昭和56年にかけ、邱は
台湾に設立していた会社7社を整理しました。

「一年間に台湾で7社も店じまいをしたが、
事業は攻撃をするときよりも、
退去するときのほうが遥かに難しい。
負債の整理もしなければならないし、
従業員たちに退職金を払ったり、
配置転換をしたりもしなければならない。
私にそれができたのは、一つには私に自衛力が強く、
ここを投げなければ自分が引っくりかえるという
折返し点まで来ると、案外、あきらめがよいからであるが、
もう一つには、私がいつもそのときのことを考えて、
どの関連企業でも手形を一枚も切らなかったからである。

時に利あらずと見て、私は思い切って自分の事業を整理したが、
それで台湾における私の事業が全部なくなったわけでもない。
また海外投資はもう駄目だと思って
すっかり足を洗ってしまったわけでもない。
失敗して店じまいをした事業もあるが、
案外、うまく順調に乗って順調に伸びている事業もある。
うまく成功した話はあまり参考にならないし、
また自慢できるほど成功した話もたくさんあるわけではない。
ただ私の場合は、仕事がうまくいかなければ、
むろん、仕事をやめてしまうが、うまく成功をしても、
同じように夢から醒めてしまう。
したがって成功に酔っているヒマはあまりなく、
一つの夢から醒めると、また性懲りもなく
次の新しい仕事の可能性に向かって
ファイトを燃やすことになるのである。

ところで、日本の企業が第二の拠点として進出した
韓国や台湾から引き揚げるということは、
日本がそれらの拠点からアメリカや
その他の先進国に攻め込むことをやめて、直接、
それらの先進国に乗り込める条件を備えるように
変わってきたということにほかならない。

省エネと自動化という切り札によって
国際競争力をもつようになった日本の産業界は、
もはや以前のように、アメリカに乗り込んだ場合、
あの職能別労働組合にいじめられたり、
また下請け企業から部品調達のことで
自動化することによってたくさんの人を使わなくても
すむようになったし、下請けの海外進出も容易になったし、
これらのトラブルから解放される見込みが
ついてきたからである。
とすると、これからいよいよ日本企業の本格的な
アメリカ攻略がはじまるぞ、と私は思った。
そう思った途端に、私は台湾で受けた傷の痛みも忘れて、
もう心は早くもアメリカに向かって走り出していた。」
(『失敗の中にノウハウあり』)