昭和51年1月2日、邱の恩人である
檀一雄氏が逝去しました。

「檀一雄さんの見事な一生」と題した
エッセイの一部を引用します。

「太宰治、坂口安吾に続く最後の破滅作家というのが
檀さんに貼られたジャーナリズムのレッテルであるが、
本当の檀さんは神経の細かい、よく気のつく、
また学究的な面をもった人であった。
ただ経済観念は全く駄目で、
『俺は今、月収150万円あるんだぞ』と
威張っているかと思うと奥さんの方に向きなおって
『5万円出版社に借りに行くから電話しろ』
というセリフがとび出してくる。

同じ東大経済学部の出身でも、
『邱君のは経済学部だが、僕は不経済学部だ』と
よく言っていたが、これでは奥さんの苦労も
並大抵のことではない。
私は見るに見かねて、家族の生活が安定するように
広い庭の半分を使ってアパートを建てるプランを
出したことがあるが、奥さんからきいたところによると、
『文士がアパート経営だなんて、
そんな見っともないことができるか』と
相手にならなかったそうである。

不安定の状態におかなければ、
すぐれた作品が書けるわけがないというのが
檀さんの信念だったようである。
そういう意味では、
『これはこれで、一本筋の通った見事な人生である』
というのが私の偽らざる感想である。

不思議なことに、私が最後に檀さんにお目にかかったのも、
やはり病院の一室であった。
檀さんの病気が悪いと新聞社の人にきいて、
私は宮崎に行く飛行機を、
福岡まわりにして九大病院へお見舞いに行った。

檀さんとは、3年前に台湾に同行していただいて以来、
会っていなかった。
ポルトガルで安葡萄酒を飲みすぎたせいだ、
と3年前の時も顔色がさえなかったが、
今、見ると、肌の色が黒く沈んでベッドに寝たきりである。
檀さんはしきりにうちの女房や娘のことをたずねた。
私が送った台湾茶がうまかった、もう酒が飲めないから、
お茶の味がわかるようになったともいった。

私はこれがこの世の別れになるかもしれないと思いながらも、
飛行機の時間に急かされて急いで病院を去ったが、
家へ帰ってしばらくたったら、
私の姉弟たちにといって『火宅の人』が五冊も送られてきた。
『三界に安らぎなく猶火宅の如し』という帯の字が
今も私の目も前にちらついている」
(「檀一雄さんの見事な一生」『食べて儲けて考えて』に収録)