「昭和四十年代の後半は、
日本国中がコスト・インフレで頭を抱えている最中であった。
既製服メーカーも縫製業者もその例にもれず、
国内では縫製にお金がかかりすぎるようになっていたので、
私がコストの安い台湾で工場をつくりましょうと誘うと、
私の洋服をつくってくれていたデザイナーは、
あちこちのメーカーの顧問をやっていた関係もあって、
すぐに私の提案にとびつき、
洋服メーカーの社長を誘って、投資視察団に同行した。


私も気の早いほうだが、
そのデザイナー上がりの洋服屋さんは
私に負けない早とちりであった。

台湾の賃金が日本の三分の一であることを知ると、
早速、神田の問屋街で
既製服メーカーをやっている社長にも出資させ、
私のほうが半分、向こうが半分という出資比率で、
高雄市の加工区に資本金三千万円の
紳土服装股份(こふん)有限公司という縫製工場をつくった。

加工区とは輸出専門の免税団地で、
機会設備も原料や資材も
一切外国から免税で持ち込める代わりに、
製品はすべて輸出するのが条件だ。

ここに縫製工場をつくり、
型紙も縫製技術もすべて日本から持ち込み、
あまりファッションに左右されない
フォーマルウエアを大量に加工して
日本へ輸出する計画であった。」
(『失敗の中にノウハウあり』)