昭和47年4月に24年ぶりに台湾を訪れた邱は
6月に80人の中小企業主を連れて台湾を視察し、
続いて7月には35名、9月には85名と
台湾考察団を組織して台湾へ現地見聞に出かけました。

「私と一緒に台湾へ行った中小企業の経営者たちは
戦後の日本で腕一本で財をなした人々ばかりである。
情勢の判断が早く、できると思ったら、
リンギなどという面倒な手続きも必要でなく、
直ちに実行に移すことのできる立場にいる。

だから現地を自分の眼で見て、
これなら商売になると考えた人は
直ちに行動に移っているが
『中共へ中共へと草木もなびく』
この激流のなかで、私と工場を建てる計画を
推し進めている。」
そして10月、11月と視察はつづき、
ほとんど月に一回は故郷へ帰るようになりました。

邱さんの台湾行きの目的は、台湾の経済建設に
貢献をしたいというもので、
そのため台北市の目抜きの十字路の角に
10階建てのビル建設を始めました。
また邱永漢工業区という私設工業団地をつくって
何十件かの工場を建てる計画も進めました。

また面白いのは邱に連れられて
多彩な顔ぶれの人が台湾視察に参加していることです。
邱の恩師にあたる檀一雄、
ペンシル・ロケットを開発した糸川英夫、
大阪万博の時、住友童話館を立て、
名プロデューサーといわれた小谷正一、
『痛快!税金学』を発行された
野末陳平などの各氏も
この期間に台湾を視察しました。
故郷の経済再建にかける邱の情熱が伝わってきます。