「一枚の繪」を販売するために
竹田厳道さんは私の渋谷のオフィスの2階に引っ越してきました。
私のオフィスは4階にあったので、
時々、様子を見に2階を覗きに行きましたが、
はじめの頃は誰も知らない画商だったし、
絵画ブームにもまだなっていなかったので、
あちこちで展覧会をひらいてもなかなか絵は売れませんでした。

そこは営業畑出身の竹田さんのことです。
新聞社はクビになりましたが、
社長時代に北海道テレビの役員に名をつらね、
その役職はまだ残っていましたので、
テレビ局に共同イベントでやって見ないかと持ちかけたところ、
展覧会をやる前にテレビで報道するので、
お客が予想以上に集まり、
思いもかけなかった業績をあげることができました。
何でもやって見るものです。
地方テレビ局はもともとその地方だけのイベントが少いので、
テレビ局の宣伝にもなって一石二鳥の効果があがるので、
全国どこのテレビ局でも誘いに応じてくれたのです。

「さあ、そうなると、
全国どこからも次々と声がかかるようになり、
「一枚の繪」は地方巡業で引っ張り凧になり、
手で一枚一枚描く絵が間に合わなくなってしまいました。
私は地方のことはわからないのですが、
帝国ホテルやオークラでやる展覧会に出品する絵が間に合わず、
うちのビルから会場に持って行く運搬車の中で絵描きさんが
画キャンバスに筆を入れている光景を
何回も目撃したことがあります。
それが「一枚の繪」の全盛時代でした。
全く絵と関係のなかったシロウトが絵の商売に手を出して
一流画商をしのぐ商売をやるのを私はこの目で見てきたのです。

ちょうど「一枚の繪」の商売がはじまったか、
あるいはその前だったか、
竹田さんは
「商売やる人は皆、
相談したいと思っても相談のできる人がいません。
邱センセイが相談に乗ってあげたら、
たくさんの人が相談に来ると思いますよ。
私が広告料を払いますから、
邱永漢財務相談室をひらきましょうよ」
と私がイエスとも、ノーとも言わないうちに
さっさと日本経済新聞で広告を出してしまったのです。」