「それから何年かたって、
私は経済界の人とつきあいがあるようになり、
経営者対談をするために、
森ビルの森泰吉郎社長のところへ
雑誌社の人に連れられて行った。

森さんは横浜の蚕糸大学の教授をやっていたことがあったが、
教師をやめて米屋を家業にしていた家へ戻り、
周辺にビルを建てて賃貸業をはじめたのだそうである。

ちょうど高度成長期に突入した日本の大企業は
工場の拡大に全力投球していた時分だから、
自已資金で本社事務所を建てる余裕はなく、
高い保証金を払っても、
事務所は賃借りをする傾向が強かった。

だからつぎつぎと建てたビルの中では、
保証金だけで、土地代から建築費まで
タダになったのが二軒もあったそうだ。

しかし、森さん自身は倹約な人で、
社長室ではツッカケをはき、ヒマがあると机に向かっても、
金利計算ばかりしているような地味な人であった。

『お仕事はどんな部下を使っておやりになっているのですか?』
と私がきいた。すると、
『いや、慶応を出たうちの息子と二人で弥次喜多でやっているだけですよ
と森さんがおっしゃるから、
『じゃ、その息子さんにうちの息子をひきあわせてくれませんか?
うちの息子は森ビルの息子に生まれたいといっておりますから』

と私は冗談でとばした。
『でも、うちの息子はうちの息子に
生まれてよかったなんて思っていないと思いますよ』

『それなら、もっといいんです。
うちの息子もあきらめがつくでしょうから』

そんな縁から森さんの息子さんと知り合いになったのだが、
息子さんの森さんの方がうちへ見えたときは、
うちの息子はまだやっと中学生になったばかりだったから、
まともに会話ができるような年齢でなかった。」
(「邱飯店のメニュー」)

ちなみに、邱は昭和46年発刊の「もうけ話」で
”森ビルの息子に生まれたい”というタイトルで
森泰吉郎氏が始めた事業がどのような形で
発展していったかのプロセスを描いています。