それから3ヶ月たった昭和34年9月
邱永漢は実際に株を買う行動に出ました。

「日本経済新聞の株式欄を丹念に読み続けたあと、
私は実地に株を買う気を起こした。
しかし、株屋には知り合いが一人もいなかった。
姉に紹介してもらおうと思えばできないことでもなかったが、
前垂れ気質の古いタイプの株屋さんだったし、
なんとなく肌合いが違うので、自分でさがすことにした。

あとになって考えてみると、
これはとんでもない筋違いだが、

私は自分がお金を預けていた
都市銀行の自由が丘支店に

支店長をたずねて行った。

『実は、株に興味を持つようになりましてね、
株を買ってみたいと思うのですが、支店長さん、
この近所に知り合いの株屋さんはありませんか?』
『ほお、これはまた珍しいお話ですね』
と支店長さんは目を丸くした。


支店長さんは私を小説家と思っていたし、
小説家が株に興味をもつことなど
きいたこともなかったに違いない。

私が事情を説明すると、
支店長さんはすぐ納得して、

『このすぐ先を曲がった郵便局の斜め前に
小さな証券会社があります。
私の親戚筋の者がそこで働いていますから、
そこへおいでになったらいかがですか?』
と目の前ですぐ電話をかけてくれた。

私はその足で郵便局の斜め前にある証券会社の
自由が丘出張所に出かけて行った。
支店ですらない小さな出張所は
角の煙草屋の貸し家を借りた

質素な店構えの店であった。

郵便局の側からその扉を眺めながら、
私は一瞬、どうしたものかとためらった。
株で身ぐるみ剥がれて一家離散したような話は
子供の時からよくきかされたし、小説のテーマにもなっている。

自分も、もしかしたら、
そういう目にあわされるのではないかとためらった。
しかし、次の瞬間、
私はもう証券会社の扉を押して中に入っていた。
『やあ、邱センセイですね。お待ち申しておりました』
と、山田という名前の出張所長さんは
緑の黒いロイドメガネの奥から微笑を覗かせながら、
私に挨拶をした。

私は自分の運命は自分でひらくべきものであり、
うまくいっても行かなくても、
自分のせいであって、他人に転嫁すべきものではない、
と自分に言いきかせながら、相手のすすめる椅子に腰をおろした。」
(『一家に一台火の車』)

自分の考えたことを実際に実行し、
その結果をもとに
文章を書いたり
人前で話をしていくという
邱永漢のスタイルが
よく表れています。