邱永漢は昭和30年から36年の間
ほかに五編の小説を書いています。

一冊は「誰が家の花」で、『婦人画報』社に
連載したもので、講談社から刊行されますが、
邱は「どう見ても下手糞の小説」
(邱永漢自薦集3『オトコをやめる話』のあとがき)
評価しています。

ほか4冊は
「風流漢奸」、「恋の広場」、「田沼学校」、
「オトコをやめる話」の4つの小説です。

これらの作品は、
のちに『オトコをやめる話』という題で
一回目の全集にまとめて、昭和47年も発刊されますが、
のちに邱は次のように評しています。

「『風流漢奸』は
国民政府からも共産政府からも
容れられなかった
自分自身を戯画化して書いたものだし、
『恋の広場』は先にも後にも一回だけ筆の進まなかった
『誰が家の花』という婦人画報誌の連載をするために、
昔のパレスホテルにカンズメになっていた時に、
すぐお隣にあった皇居前広場に
散歩にでかけて
歩いているうちに
思いついたストーリーだった。
あの頃の皇居前はまだラブホテルに不自由していた。
若者たちのランデブーの名所だったのである。

『田沼学校』と『オトコをやめる話』は
三字名前の外国人作家が書いた時代小説である。
日本の歴史や国民性に対する私の名前は当然ながら、
生粋の日本人作家と視点からして違っている。
そういう視点から『サムライ日本』や
『キチガイ日本』などの文明批評を既に書いていたが、
田沼意次や本能寺の変を
私が小説に仕立てるとこういう形になった。

人知れず苦吟している私の姿を見て
『中央公論』のいまは亡き嶋中鵬二さんが
『邱さん、三字名前で髷物は無理だよ。
何とか錬三郎とか、
なんとか長三郎とかいった名前でないと・・・・』
とアドバイスしてくれた。
(邱永漢ベストセラーズ版『オトコをやめる話』)