邱永漢は昭和32年8月10日、

中央公論社社長の嶋中鵬二、綱淵謙錠ら

「中央公論」の編集者を自宅に招きました。

 

「嶋中さんが私の家に、

『中央公論』の編集者ともども見えたのは、

『台湾人を忘れるな』の翌月、

即ち『サムライ日本』の第一回連載が

『中央公論』に載った当日である。

 

中央公論社は、深沢七郎とか庄司薫とかいった

立派な作家も世に送り出しているが、

それ以上に社員の中から作家たちを輩出させている。

 

当日のメニューには

のちに直木賞をもらった綱淵謙錠氏の名前も見えているし、

その次の十月十八日には、

女性ではじめて

『婦人公論』の編集長になった三枝佐枝子さん、

いま鉄道旅行のルポ作家として活躍をしている

宮脇俊三さんの名前もある。

 

私の原稿の担当をしてくれた人たちが

編集局長になったり、

有名作家になったりしたのだから、

気がついたら、こちらも

いい加減な年齢になってしまっていた

としても不思議ではない。」

(『邱飯店のメニュー』)