「私の韓非子」を『文藝春秋』誌に掲載した後
邱永漢は同誌から遠ざかったかが、
編集長、池島信平氏との交流は続きました。
「その後、私は『文藝春秋』や
『オール読物』や『文学界』など、
文藝春秋の雑誌から次第に遠のき、
中央公論社発行の雑誌で執筆するように変わったが、
個人的には池島信平さんと相変わらず往き来をし、
しばしば私の家にも食事にきていただいた。
そういう関係があったので、
池島信平雑誌記者二十五周年の
記念パーティにもご招待を受けた。
行ってみると、盛大な会ではあったが、
私より年齢的にひとまわり以上も上の
著名な作家や社長たちばかりで、
私と同年輩の作家たちは一人も見えていなかった。
やはり私は特別扱いだったのだな、
とそのとき、はじめてわかった。」
(『邱飯店のメニュー』)
また池島氏は世俗的なことについても
邱永漢の意見を聞きました。
「池島さんは、私と話をするのが好きとみえ、
のちに文藝春秋の社長になって社長室におさまると、
第一線から退いて、よほど退屈しているらしく、
私がたずねて行くと、社長室に私をとおして、
亡くなった先代社長佐佐木茂索さんの遺産相続のことから
紀伊国屋書店の経営のことに至るまで
世俗的なことについて私の意見をきいたりした。
文士で経済や経営のことまでわかる人は
減多にいなかったから、
池島さんは私の顔を見るたびに、
『菊池先生が生きておられたら、
邱さんなんかおそらく一番可愛がられただろうな』
と口癖のようにいった。」
(『邱飯店のメニュー』)