『濁水渓』を小説家や批評家あてに送ったところ、
文芸評論家の林房雄から、
「いまの小説家より一歩だけ先を行くよい作品です」
と書かれた葉書が邱永漢に送られてきました。
「私の処女出版の本ができてきたとき、
私は檀さんの忠告に従って、
檀さんの教えてくれた小説家や批評家あてに、
いちいち署名をして送付した。
そのとき、檀さんは、
『この本を見て真っ先に賞めてくれるのは、
きっと林房雄だろうね』といった。
私にはその意味がわかりかねたが、
本を送って何日かたったある日、
郵便受けを覗くと、毛筆で書いたハガキが入っており、
それに、林房雄と署名がしてあった。
裏をひっくりかえしてみると、
『本を有難う。いまの小説家より
一歩だけ先を行くよい作品です』
という意味の賞め言葉が記されていた。
林房雄さんは、戦前、『獄中記』を書いて
マルクス主義から転向したというので、
左翼の人たちから変な目で見られてきた人であるが、
当時は、『小説新潮』や『オール読物』に
盛んにいわゆる中間小説を書き、
舞台にも上演されて、なかなか人気のある流行作家であった。
と同時に、『東京新聞』の文化欄で、
匿名で文芸批評をやっており、歯切れがよくて、
木端微塵なやっつけ方をするので、
一部の人たちからは恐れられていた。
その人が賞めてくれたのだから、私は意を強くしたが、
その半面、新人の作品をこんなに早く、
こんなに丹念に読んでくれるなんて、
この人はなんという勉強家だろうと、
本当に感心した。五、六年のちに、
私は鎌倉にある林さんの家を訪問したことがあるが、
頭の回転の早い分を言葉に出すのがもどかしいような、
せっかちな人で、三島由紀夫さんの才能を
いち早く認めたのも同氏であり、
また『潮騒』以後の三島氏の小説に批判的になり、
その行き詰まりを予言したのも同氏であった。」
(『邱永漢飯店のメニュー』)