病院で治療中の檀一雄に

新しい作品を読んでもらいました。

 

「私は小説家として

一日も早く一人立ちできるようになりたい

と思っていたので、

頭の中はいつも小説のことで一杯であった。

 

病床にあった檀一雄さんは、

やがてベッドの上に起きあがれるようになったが、

石にあたった傷口の手当てがあるので、

すぐにはベッドを離れることができない。

 

『いまが一番ひまだから、原稿を持っていらっしゃい。

いまなら、見てあげられますよ』

慶応病院に見舞いに行くと、檀さんはそういってくれた。

 

私が自分の書いた小説をおいて帰り、

二、三日してまた見舞いに行くと、

『邱さんは原稿の書き方を誰に教わりましたか?』

『別に誰に習ったということはありませんが……』

と怪訝な顔をして答えると、

『いや、原稿用紙の埋め方のことですよ。

はじめて小説を書く人のなかには、

原稿用紙の埋め方も知らない人が多いでしょう。

一行目の一番上を一字あけておくとか、

会話になったときは、カギをつけて、

その次のマス目から書きはじめるとか、

行をかえるときは、また上の一字をあけるとか、

誰かに教わらなければ、ちゃんと書けないものですよ』

『さあ、何とはなしに、

見様見真似ではじめただけですけれど』

小説の中身よりも、原稿用紙の書き方のことを

いわれたのにはびっくりした。

 

私は『濁水渓』につづいて、

『検察官』とか『敗戦妻』とか『客死』という小説を

つぎつぎと書いていたが、病院に行くたびに、

 

新しく書いたものを持って行くので、檀さんは感心して、

『いくらでもつぎからつぎへとできてくるのですね。

いったい、いつ書くのですか?』

『ほかにやることがないものですから、

一日中、机に向かっているんです。

二日に一篇ぐらいの割合で書けます』」

(『邱永漢のメニュー』)