東京に来た邱永漢一家が
旅装を解いたのは大森臼田坂にある姉の家でした。
「小説家を志して香港から東京へ出てきた私は
しばらく大森臼田坂にある
私の姉の家に居候しました。」
(『中国株で一山当てたい人集まれ』)
さて、東京へ来た第一の目的が
長女の病気の治療でしたので
すぐに病院に行き、病院に近い
九品仏駅付近の一戸だての家を
借ることになりました。
「週にいっぺん、約一年間、
治療のために通わなければならない
国立第二病院は世田谷区の駒沢にあり、
そこの門前からバスに乗って
着いたところが自由ヶ丘であった。
その自由ヶ丘で、不動産屋にとびこんで
『どこかこの辺に貸家はありませんか?』
と尋ねたら、
隣駅の九品仏へ連れていかれた。
家を見て一度で話がきまり、
財布の中から、一ヵ月分の家賃に相当する
ブローカー料を払ったが、
まだ皆の月給が一万円くらいの時分であったから、
親子三人で部屋三つの家は
どん底生活というほどでもなかった。」
(『邱飯店のメニュー』)
「三間つづきの鰻の寝床のような細長い借家」
(同上)であったとも書かれています。