さて、小説を書くことへの意欲が湧いてきた

邱永漢のもとに、朗報が舞い込みました。

『オール読物』新人杯の募集小説

が数多い応募作品のなかで最後の五篇に残ったという知らせです。

 

 

「駈け出しのときに、

先輩に賞められることくらい勇気づけになることはない。

菊池寛の半自叙伝を読んでも、

新人の批評については、慎重でなければならない旨、

何回もくどくどと述べている。

おそらく誰にとっても思い当たるフシのあることであろう。

おかげで、私はすっかり自信がつき、すすめられるままに、

『オール読物』新人杯の募集小説に香港から応募してみた。

そうしたら、私の書いた『龍福物語』という百枚の原稿

が九百何十篇ある応募小説の中で、最後の五篇に残った。」

(『邱飯店のメニュー』)

 

また邱の長女の病気の治療に

当たってくれる先生を

東京にいる邱の姉が見つけてくれました。

ただ、治療には1年くらいの通院が必要とのこと。

 

そこで、長女の病気治療を第一の目的とし、

第二の目的としてひょっとした小説家に

なれるかもしれないとも考え、

邱家一家は香港から東京に移る

ことになりました。

 

「私は日本総領事館に出かけて行って、

日本に戻りたいが、

在留許可をもらえないかときいた。

私が東大出であることを知ると、

副領事はとても鄭重に扱ってくれた。

 

また私が自分は

日本の会杜の役員にも名を連ねていると言って、

義兄のチューインガムの会社の登記謄本を見せると、

これがあれば一年のビザをさしあげられます、

と言って私のアフィダビットの上に

ハンコを押してくれた。

 

こうして私は

六年間住みなれた香港を去ることになった。

 

住んでいた家を人に貸し、日本に行ってから

小説家として生計がたてられるようになるまでは、

その家賃で暮らすつもりだった。

 

一人で生命カラガラ逃げて来たのに、

香港を離れる時は、娘と三人になっていた。

家内の父や母や兄弟に送られて、

私たちは九龍の碼頭(マアタウ)から

フランス郵船のベトナム号に乗り込んだ。

一九五四年四月、日本では

ちょうど桜の花の散る頃だった。」

(わが青春の台湾 わが青春の香港』)