廖博士が日本に向かうなど、台湾独立運動の仲間が

離散するなか、邱炳南(邱永漢)は地元、香港の人である

妻の進言に従い、借家暮らしをやめ、自宅を購入しました。

 

「廖博士はよく「孤掌難鳴」(片一方の手では拍手もできない)

という言葉を使って、同志を集める必要性を訴えたが、

一人だけ香港に残った私としては

まさか道化師のような一人芝居を続けることもできない。

もし家内や私の喧嘩相手になった家内の親戚たちがいなかったら、

私は香港に一人で住んでいられなかったかもしれない。

 

私のような流れ者にとって

香港はまったくの異邦だが、

家内やその一家の人たちにとっては永住の土地であった。

だから同じ土地に住んでも気構えも違えば、

財産の運用の仕方も違う。

私は自分がいつどこへ動くかわからないと思っていたし、

またいつでも動けるように準備をしていた。

 

しかし、家内は土地の人だから、

自分と結婚した以上、これからは

私もこの土地に住むものと考えている。

 

そのためには、安定した収入のある家産の運用が大切であり、

何はともあれ家賃を払って

マンションを借りているのでは駄目だといって、

私に不動産を買うことを盛んにすすめた。

 

私も月々五百ドルもの家賃を払うのは

もったいないという気持があったし、

自分らのマイホームとして家を買う分には

積極的に反対する理由はなかった。

 

ただし、どういう家を買うかという段になると、

私と家内では意見が対立した。

家内は土地の事情に通じているから、

繁華街の中に三階建か、

四階建の小さな住居ビルを一軒買い、

自分らはその一階分に住んで、

空いたところは人に貸して家賃をもらえばいいと言った。

 

私は雑居ビルの上に住むのは気がすすまなかったし、

自分は読書家だから、閑静な環境の中で

読書万巻にふけっていられるところを欲しがった。

結局、私は自分らの住んでいたマンションと

背中合わせになった利成新邨(リイセンサンツウン)という

庭付きの高級住宅の奥まった

袋小路の奥にある十号館を買った。」

(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)