経済的には活路の見えた

邱炳南(邱永漢)ではあったが、

蒋介石の台湾入城で、台湾独立が遠のいたので、

精神的には鬱々として楽しまなかったのでは

ないでしょうか。

 

「外へとび出して叛旗をひるがえすだけでも

生命懸けだった時代だから、

『自分らは勇気のあるほうだ』と自已弁護したが、

本当は中途半端の勇気しか持ち合わせていなかった。

おそらく廖博士も、口に出してこそ言わなかったが、

心の中では自分のやってきたことの限界を

感じはじめていたのではないかと思う。

 

もっとも、運動が完全に挫折した

とは誰も思っていなかった。

 

もし国民党政府の暴政から

台湾の人たちを救うことが天の声であるとすれば、

暴政からの解放は長い苦難の道に変わっただけのことで、

それで終ってしまったわけではない。先に延びたけれども、

長い時間をかけてやらなければならないことに変わりはない。

ついにこれは一生背負って歩く重荷になってしまったなぁ、

というのが私の実感であった。

 

それでも私はまだ若かったから、

環境に適応する能力があった。

 

この家の居候になったばかりの頃は、

阿二(アーイー)という女中さんにもいじめられ、

風呂に入った時に脱いだ下着を

廖家の人々のそれとふり分けられ放置されたものだが、

少々金まわりがよくなると、

私はチップをやることにも

要領を得るようになった。

 

おかげで、ベッド・メーキングから、

風呂の用意まで何でも

快くやってもらえるようになっていた。」

(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)