同級生、王育徳の訪問を受けたのは
王の半自伝『昭和を生きた台湾青年』によれば
昭和25年7月4日のことです。
炳南(邱永漢)はその頃は
精神的経済的にピンチのさなかにありましたが、
香港の小物を郵便小包で送る商売で
邱永漢は活路を見出します。
「おかげで、私は台湾を去って
一年あまりたった頃になると、
どうやら自活できる道がひらけてきた。
収入があるようになった以上、
そういつまでも居候をきめ込むわけにはいかない。
まず自分の食い扶持は自分で負担することにした。
たとえ同じ家に住んでいても、居侯と下宿人とでは、
気分がまるで違う。私は少し元気になったが、
廖博士のほうは私とは反対に、
気分的にだんだん減入っているようだった。
すでに蒋介石の台湾入りは現実のものとなり、
台湾に逃げ込んだ国民党政府を支持することによって
中国共産党に対抗するアメリカの基本方針は
不変なものとなってしまった。
もはや『台湾人の台湾』を
実現するチャンスはなくなったも同様だし、
あとはゲリラを組織して実力で
国民党政府を台湾から追い出すか、
でなければ身の安全な海外にいて
『犬の遠吠え』をやる以外に方法はなくなっていた。
もし私にカストロとかゲバラとかいった人ほどの
勇気があったら、私は漁船にでも乗って
台湾へもぐり込んで、
武力に訴える道を選んだことであろう。
しかし、正直のところ、
国民党政府に不満を持った台湾の知識分子の大半は、
自分の実力ではなくて、
外の力をかりて独立をかちとりたいという
虫のよい考え方をしており、私もその例外ではなかった。」
(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)