ここで、邱炳南(邱永漢)が台湾に亡命した

昭和24年のことにさかのぼります。

この年の12月、中国大陸で

中国共産党と戦っていた蒋介石が

その戦いに敗れ、アメリカは蒋介石が

台湾に入ることを認めます。

 

ここで、邱らが描いていた

アメリカは蒋介石が台湾に入ることを

認めないだろうであろうとの

目論見が覆されていまいました。

 

「宝くじを引いて当たったような好連は

そう長く続くものではない。

儲かる商売はどんな商売だろうと、

必ず競争相手が現われて、

あッという間に消えてなくなって

しまうものだからである。

 

しかし、そこまで辿りつくずっと前のところで、

『アメリカは蒋介石を台湾に入れないだろう』

という私たちの政治的な賭けはものの見事に破れてしまった。

 

丘念台さんが私たちを訪ねてきたのは、

まさにそういう駆け引きの只中のことであったが、

蒋介石の代わりに

国民党政府の代理総統になった

李崇仁将軍が中共との和平交渉に失敗すると、

蒋介石は再び対中共作戦の最高指揮者に返り咲き、

その年(昭和24年)の十二月四日には

蒋介石自身が飛行機で台中に入り、

国民党政府の台北遷都が宣言された。

 

結局、アメリカは抗日戦争中、

盟友だった蒋介石をドタン場になって

見捨てることができなかったのである。

『台湾で国民投票を行い、その将来を決めるべきである』

という私たちの悲願はこれでおしまいになった。

 

私にとってもそれは大きなショックであったが、

運動の先頭に立っていた廖博土にとっては、

おそらくもっと大きな打撃であったに違いない。

 

本当は、ここで潔く別れの杯でも交わして、

親分子分それぞれ身の振り方を考えた方が賢かったかも知れない。

しかし、事の発端が蒋介石の台湾に派遣してきた

陳儀の暴政に対する生命懸けの抵抗であったから、

ここで解散というわけにはいかなかった。」

(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)