邱炳南(邱永漢)とともに

廖文毅邸に居候していた荘要伝は

香港にきてから一カ月もたたないうちに、

東京に向かい、台湾独立のための活動を

展開します。

 

「『日本に行きたい』と言っても、

パスポートもなければ、入国ビザもなかった。

当時は、日本人はまだ、外国にも出られなかったが、

台湾や香港の人も日本には入れなかった。

 

しかし、台湾からは砂糖を積んだ船が日本に通っていたし、

香港からは貨物船が原料や食糧を積んで

日本の港に出入りしていたので、

その船の中にもぐり込んで行けば、

港を守備しているMPの目をかすめて

上陸することができた。

 

船員に化けて渡航するヤミ船の相場は

香港ドルの千ドルだった。

米ドルにすると、二百ドルくらいだったが、

当時としては大金だった。

そのお金を廖さんが出してくれたので、

荘さんは間もなく香港からいなくなった。

 

東京へ舞い戻った荘さんは

台湾独立連盟という組織をつくり、

占領軍司令部に出入りするようになった。

しかし、ある時、夜寝ていて突然、息絶えてしまった。

暗殺されたのではないかという噂も立ったが、

真偽のほどはわからない。

 

思ったことはガムシャラにやらないと

気のすまない直情径行の人であったが、

妻子と離れ離れになって淋しい最期であった。」

(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)

 

ちなみに、それから時を経て、

邱炳南(邱永漢)は荘要伝を

モデルの1人にした小説『客死』を書き、

昭和31年に発行の『密入国者の手記』で発表します。