香港に着いた邱炳南(邱永漢)は
廖文毅氏に迎えられ、
国連への請願書の草稿(日本語)を復原。
廖氏がそれを英語に翻訳し、
二人でアメリカ総領事館に出かけ、
国連事務総長あてに請願書を送ります。
「翌朝、厦門を発って一時間後には無事、
香港の啓徳飛行場に着いた。
廖文毅氏がわざわざ私を迎えに来てくれていた。
すぐその足で金巴利道(キンバリー・ロード)
にあるアパートに連れて行かれ、荷物を置くと、
昼食をしようと案内されて、
香港島側の浅水湾(ツェンスイワン)にある
リパルス・ベイ・ホテルに行った。
コローニアル風の建物で、
海の見えるバルコニーに陣取っていると、
突然、自分が船底の暗闇の中から
一等のデッキに出てきたような錯覚におちいった。
『台湾と香港はどうしてこんなにも違うのだろう?
こんなところで一生暮らせたら、どんなに素晴しいことか』
と私は目の前がくらくらするのを禁ずることができなかった。
その日から私は、
焼いて捨てた請願書の草稿の復原に打ち込んだ。
二日もしないうちに、私が日本語で書いた草稿はできあがった。
廖文毅氏がそれを英文に打ち直すのにさらに二日かかった。
それから廖氏は私をアメリカ総領事館に連れて行って、
サービスという名前の副領事に引き合わせてくれた。
この人が独立運動の担当者で、
廖氏の英文をアメリカ人にも通用する
ホンモノの英語になおす作業を手伝ってくれた。
もう一度タイプで打ち直した請願書に、
台湾再解放同盟とか、台湾独立同盟の主席のサインをして、
国連事務総長あてに送り出したのは、
私が香港に到着してから六日目のことであった。
翌日、私は任務を終えて、
再び香港から台南市の飛行場へ舞い戻った。」
(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)