先輩のつてで華南銀行に勤めることになり、

銀行の社内紙に寄稿する以外は、

博士論文「生産力均衡の理論」の執筆に

かかります。

 

「林さんは私を連れて董事長室に行くと、

私を劉啓光氏に引き合わせた。

はじめて見る銀行のボスは、とても目の鋭い人で、

私は京劇に出てくる『三国志』の中の曹操を連想した。

もちろん、だから彼は奸臣だと言っているわけではないが、

それが私の受けた第一印象だった。

実際にはかなり世話好きな人で、

その人柄を褒める人に私は何回か出会ったことがある。

 

おかげで、私は台湾から亡命するまでの一年間を、

前半は華南銀行研究員、後半は調査科長として

糊口をしのがせてもらうことができた。

 

研究員といっても、

自分で仕事をつくり出す以外にやることは何もなかった。

私にはまだ学者になりたいという

尾骶骨みたいなものが残っていたから、

この機会に東大経済学部に提出する

博士論文を書きたいと思っていた。

紀伊国屋文左衛門が吹っとんでしまった途端に

ジョン・メイナード・ケインズ気取りでは

あまりにも身勝手すぎるが、

そういう人間を養うことは銀行にとってもいい迷惑であろう。

 

しかし、私はめげなかった。

私は林益謙さんにあらかじめ諒解を得て、

銀行の社内紙に寄稿する以外は、

研究室の机に向かって博士論文の執筆を続け、

それを研究室のタイピストに

謄写紙を使って五部ずつ打ってもらった。

博士論文は二部必要だときかされていたし、

当時はまだコピー機もできていなかったから、

タイプを使ってその目的が達せられたのは

一(いつ)に銀行のおかげと言ってよかった。

 

私の博士論文は『生産力均衡の理論』

と題した分厚いもので、

五部のうち一部を研究室に残し、

のちに香港に亡命してから、

人に持参してきてもらった。

 

その主旨は、

ケインズが貯蓄と投資の均衡を主張したのに対して、

金融操作だけでは景気の調整には不充分で、

年々消費のふえる分と、年々生産のふえる分の間に、

しかるべきバランスをとるべきだ、

そのためには金融だけでなく、

公共投資も民間投資も含めた総合的な対策が必要だ、

という内容のものであった。」

(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)