国民党政府の容赦のない台湾人虐殺に
に怒りを覚えた23歳の邱炳南(邱永漢)は
再び日本に戻り、外から攻めるのが
が最善の道だと考えました。
しかし、台湾から日本に向かう船が乗せるのは
日本人国籍を持つ人だけなので、
台湾人国籍の邱は台湾に残るほかありませんでした。
「当時、私はまだ二十三歳の若者だったし、
正義感に燃えていた。
国民政府に日本統治時代より
もっと苛酷な植民地扱いを受けたのでは、
台湾人の将来が思いやられると心が痛んだ。
唯一の方法は、台湾を
国民政府の桎梏(しっこく)から引き離すことだった。
カイロ会談にも臨んだくらいだから、
蒋介石の存在は大きかった。
その支配から脱れることは容易なことではない。
陰謀が震見しただけでも生命はないと
覚悟しなければならなかった。
政府に批判的な言辞を吐いただけでも、
共産党の帽子をかぶらされ、
すぐにも軍事裁判にかけられ、
銃殺されることが珍しくなかった時代のことである。
私の周辺の人たちはみな政府に対して猛烈な不満を持っていた。
しかし、誰一人、正面切って政府に刃向う人はいなかった。
反政府運動をやるためには同志を集めなければならないし、
ゲリラ隊を組織しなければならない。
私にはそういう経験もなかったし、
そういう指導者もいなかった。
それに本当のところ、それだけの勇気もなかったから、
私の頭には、海外に出て、
外から働きかけることばかりがこびりついていた。
孫文だって、ハワイや日本にとび出して
外から清朝政府を相手に戦ったではないか。(中略)
勇気のない私は、本能的に
危険に曝されることの少ない道を選びたかったのであろう。
そのためには、もう一度日本へ戻るのが最善の道のように思われた。
当時、日本人を乗せるための引揚げ船は来ていたけれども、
日本人の引揚げ者しか乗せなかった。
私の次の弟の耕南は、堤稔という日本籍を持っていたので、
台湾大学へ行くより東京の大学にでも行ったほうがいい
という母親の意見もあって、引揚げ船に乗って日本に戻った。
その少し前に上海からいったん台湾へ引き揚げていた私の姉も、
亭主と息子ともども、同じように日本へ引き揚げて行った。
私だけが台湾籍であるために、台湾に残されてしまった。」
(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)