昭和21年、台湾に帰った邱炳南(邱永漢)が

他お日本留学組の人達と一緒に期待したのは

私立大学を設立することでした。

しかし、大学は認可されず、「延平学院」の名称で、

経済・法律及び夜間部で開始するにとどまりました。

昭和21年9月のことです。

 

「ちょうどその頃、

新興成金の一人に、新店というところで

石炭を掘っている劉明さんという人がいた。

戦後の日本で炭鉱主の羽振りがよかったように、

台湾でも石炭を掘っている人が幅をきかせていた。

 

劉明さんは細おもての、一見やさ男の感じだったが、

仕事が仕事だけに荒くれ男たちを顎で使うことに慣れており、

侠気もあったが、金離れもよかった。

この人が、日本帰りのわれわれが不遇をかこっているのを見て、

『私が財界の人たちに奉加帳をまわしてお金を集めましょう』

と一番難しい仕事を引き受けてくれた。

 

日本留学組はほとんどが職場から締め出され、

台湾大学の教職員の椅子すら拒否されたので、

それでは朱昭陽さんを未来の学長に担いで

私立大学をつくろうじゃないかということになった。

『私立延平学院 籌備処(テュウビイツウ)』

という設立事務所が劉明さんのオフィスの一角に設けられ、

そこがわれわれの溜り場になった。

 

しかし、私立延平学院の設立は遅々として進まなかった。

行政長官公署はわれわれを反政府運動の一派と見ており、

われわれに許可を与えようとしなかったばかりでなく、

『日本帝国主義的教育の害毒を受けた不逞分子』

と公然非難するようになった。

そういったわけで、大学の設立は棚上げになってしまったが、

教育庁に話を持って行った人の面子もあるので、

一段格下げして初中および高中だけが何とか許可になった。」

(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)

「あの時、私立大学が設立されていたら、

私は教授陣の末席にでも坐らせてもらうつもりだった。

それまでの腰かけとして一時期、

大同中学というところで英語の教師をやったこともあった。

ABCもわからない子供相手だからなんとかごまかしはきいたが、

日本の学校でならった英語では、

そのうちに馬脚があらわれることは目に見えていた。

とうとう教師の仕事も三ヵ月でやめてしまった。」(同上)