邱炳南(邱永漢)は郷里の台南では

することがないので、台北に戻り、

就職活動をはじめます。

 

台湾総督府の主計局長であった

塩見俊二氏の紹介で台湾省財政庁に

入れてもらいます。

 

しかし、何もすることがないので、

3か月で辞めてしまいます。

 

「田舎の町では私のやることは何もなかったし、

父が全財産を失うのをそばで見ているのはつらかったから、

二週間もしないうちに私は台北市に出ることにした。

台北市には、私と同じように田舎に帰ったが、

所在がなくてまたとび出してきた東京時代の仲間が集まっていた。

 

さしあたりどこかに就職しなければならなかったので、

台湾総督府の主計局長をやっていた

塩見俊二さんのところへ挨拶に行った。

 

引き継ぎのために残留していた塩見さんは、

中央大学出身で東京都庁につとめたことのある楊廷謙君と私を、

主計局の後身である台湾省財政庁に入れてくれた。

 

塩見さんは日本に引き揚げてから間もなく

高知県から参議院に打って出、のちに大臣を何期かつとめている。

塩見さんとしては、楊君や私のような日本で高等教育を受けた者が、

将来の台湾の財政を担うことを期待していたらしいが、

できたての財政庁には人がうようよしているだけで、

何もやることがなかった。

 

それでも勤務時間中は

ちゃんと机に向かっていなければならなかった。

事務机の上には硯と筆が置いてあって、

習字をするにはもってこいだったが、

何かやりたくてむずむずしている若者にとっては、

とうてい我慢のできない退屈な毎日であった。

血の気の多い楊君はたった三日間で、

『辞めさせていただきます』と憤然として席を蹴った。

 

私は多少は辛抱することを知っていたので、

こらえにこらえたが、三日と三ヵ月の違いはあっても、

結局、同じように役人になることは断念した。」

(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)