邱炳南(邱永漢)の父親は金儲けが上手く、
稼いだ金を他人によく貸していました。
そんな父親に対し、邱は
第一次世界大戦後、ドイツを襲った猛烈なインフレと
同質の経済現象がいま、台湾全島に起こっているので、
金で持つより、金を財に変えて持つ方がいいと、
忠告しました。
しかし、父親は実際に起こっている経済現象を
理解できず、邱の忠告は一瞬のものとにはねつけられました。
「私たちがずっと住んでいた二階建の家は、
すぐお隣りの氷屋の持ち家で、
氷屋は父からお金を借りていた。
大家が店子から借金するのもおかしな話だが、
借金の利息で大家に家賃を払うと、毎月おつりがきた。
自分で家を買って住んでいるより、
このほうがトクだと子供の頃によくきかされた。
しかし、こうした小ざかしさは、
戦後の猛烈なインフレを前にしては一切、役に立たなかった。
大家に貸していたお金は二千円で、
貸した頃は家が一軒建つほどの金額であったが、
猛烈なインフレがはじまると、靴一足が四千円になった。
隣りの大家は靴半足分の代金で何十年借りていた
お金を父に返済してきたのである。
インフレのさなかだったから、金利は高かった。
月20%といったレートが当たり前になっていた。
父は自分の全財産をはたいて三万円の現金をつくり、
それを人に貸して月に六千円の金利をもらい、
ホクホクしていた。
ちょうどそこへ私が東京から帰ってきた。
私は東大経済学部で、
第一次大戦後のドイツのインフレの話を聞いていた。
真面目で倹約家の兄貴と酒飲みで気前のよい弟がいて、
兄貴は食う物も食わずにせっせと貯金をした。
弟は酒びたりで暮らし、
ウィスキーやビールの瓶を裏庭に積み重ねておいた。
インフレが起こると、弟の空瓶を売ったお金のほうが、
一生かかって貯金をした兄貴のお金よりも多くなった。
また月給日になると、
工場の門の外に奥さんたちが待ちかまえていて、
ご主人たちがもらった月給を渡すと、
妻たちが買物をするために店屋まで走った。
どうして走ったかというと、
歩いているうちに物価が上がったから……
というのがインフレについて私の仕入れた知識であった。
まさにそれと同じことが
私の帰りついた生まれ故郷で起こりつつあった。
金利もなかなか払えなかった隣りの氷屋が、
ポーンと元利合計耳を揃えて
返してきたのが何よりの証拠であった。」
(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)