昭和20年10月、邱炳南(邱永漢)は大学院に進み、

学部時代から薫陶を受けていた北山教授のもとで

財政学を選ぶことにしました。

「自分の国もなかった者が財政学を選ぶなんてことは、

ついこのあいだまでは考えられなかったことであるが、

日本の敗戦によって自分の祖国があるようになったのだから、

財政学を学んで国の役に立てることができたらと思ったのである。」

 

この年、ともに大学院に進んだのは

薄(すすき)信一氏だけでしたが、

 大学院に進んだものの邱の心は晴れませんでした。

占領軍の方針で戦勝国民扱いをされるようになった

台湾同胞の振る舞いが目に余るものがあったのです。

 

「大学院に残ったものの、心境的には

敗戦に直面した日本人の友人たちよりずっと複雑であった。

どこでどうスレ違ったのか、

敗戦国のそのまた下積みにされていた台湾人や朝鮮人が

一夜にして戦勝国の仲間入りをすることになったのは、

主として占領軍の方針によるものであった。

アメリカ人が、今までは日本軍にこきつかわれてきた

台湾人や朝鮮人を占領国民並みに扱うようになったので、

食料品の特別配給もしてもらえたし、

新しくできたPXに自由に出入りすることもできた。

また満員電車の中に一輌だけオフ・リミットになっていた

占領軍用の車輌に乗ることもできた。

 

何もやらなかった自分たちが

そういう特権を享受することに対して、私は抵抗を感じた。

それは大学に来ていた私の友人たちにとっても同じであった。

私は特別配給をもらうために区役所に手続きに行かなかったし、

電車に乗る時もぎゅうぎゅう詰めの車輌のほうに乗り込んだ。

 

しかし神奈川県の高座にある

海軍工廠に台湾から徴用されてきた、

まだ二十歳にもなっていない一万人近い少年工たちは、

学問や教養と無縁だったせいもあるが、

外人用の車輌の中でそっくりかえったり、

プラットホームで気に入らない日本人に片っ端から暴行を働いて、

人々のひんしゅくを買っていた。

『なんという恥ずかしいことを!

これじゃ日本人が植民地や中国大陸の占領地域で

やったことと、寸分違わないじゃないか』

と私は煮えたぎる思いで胸の中が一杯になった。」

(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)