昭和19年3月10日の大空襲のときの話の続きです。

「夜の明けるのを待って後楽園まで歩き、

電車道を真砂町のあたりまで来ると、

屋根が焼けおちて焦げた匂いがそこいらに充満していた。

煙のくすぶっている中を通りすぎて、

もう駄目だろうと思いながら赤門前まで来ると、

何と東大のシンボルともいうべき赤門が

ちゃんと立っているではないか。

しかも、赤門前の路地を入った一角が

奇跡的に焼けずに残っていた。

私と許武勇さんが隣り同土で借りていた

赤門アパートも無事だった。

 

『君がいなかったから、鍵をこわして

フトンとマクラだけ

経済学部の研究室まで運んでおいてあげたよ。

あっちは鉄筋だから、

焼夷弾がおちたくらいでは焼けないと思ってね。

でもアパートも焼けなくて本当によかった』

許さんは、昨夜の悪戦苦闘など忘れてケロリとしていた。

 

しかしもうこれでは東京にも住めないから、

親のいる神戸にでも帰ると言って、

荷物を片づけにかかった。

私としても、どこに疎開するか、

きめなければならなかった。

徴兵検査不合格のために

学内に残された四十人の同期生の中で、

特に親しくしていた

松本英男君と長尾淳一郎君のどちらからも、

『うちへ来いよ』と声をかけられた。

 

長尾君は富久娘という造り酒屋の親戚で、

お父さんは酒造りの技師であった。

ただ家が広島市の町の中にあったので、

広島市が空爆を受けたら、

またまた再疎開しなければならないと思って、

せっかくの好意だけれどと言って辞退をした。

まさか原爆の一発目が半年後に

広島市におちるとは夢にも思っていなかった。

人間の運命なんて、ほんのちょっとの差で

大きく変わるものである。」

(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)

 

後年、邱は「タッチの差で命拾いをしたことが何度もある」

と述懐していますが、広島への疎開を断ったというのも

その体験の一つです。