東大経済学部の3年になってからのことですが、

邱炳南(邱永漢)にまた事件が起こります。

2年生の時に受けた講義についての試験で

書いた答案が担当教官から見て

「思想の悪い朝鮮人の学生がいる」

と問題視されたのです。

 

「たまたま二年生になってから

『大東亜経済論』という講義を受けた。

安平という助教授が担当で、

講義にはほとんど出席しなかったが、

試験の時に『満州国の統制経済について述べよ』という問題が出た。

 

たまたま私は、軍部から追放されて退職していた

矢内原忠雄先生の『帝国主義下の台湾』と『満州経済論』を読んでいた。

そこで、『満州国の経済は日本の海外発展主義と

現地の合弁資本の合作によってつくられたもので、

その土地の住民の利益と必ずしも合致するものではない』

といった主旨のことを書いた。

 

私としては日本帝国主義と書きたい衝動に駆られたのを、

待て待てと自制して、やっと『日本の海外発展主義』

といった曖昧な表現にやわらげたつもりだったが、

結果はどちらも同じことになった。

 

曖昧な表現を使ったつもりでも、

私が矢内原教授の影響を受けていることは一目瞭然だった。

 

今時こんな答案を寄せる不逞な学生はまず見当らなかったから、

安平助教授は自分の恩師で経済学部長をつとめていた橋爪教授に

『こんな答案を書いた朝鮮人名前の学生がありますが、

どうしたものでしょうか』と伺いを立てた。

橋爪教授は大東亜戦争下の経済学部長が

つとまるくらいだからカチカチの右翼で、

その場で形相を変えて、『本人を呼んで来い。

心を入れかえないなら、場合によっては退学処分にする』といきまいた。

これには伺いを立てた助教授のほうが頭を抱え込んでしまった。」