邱炳南(邱永漢)が受験したころの

東大経済学部には経済学科と商業学科がありました。

競争率は商業学科の方が経済学科よりが低く

こちらを受験し、首尾よく合格しました。

 

この時の進路選択の考えを後年

次のように披瀝し、自らの性癖にも言及しました。

 

「私は万一のことを考えて

最初から商業学科を選び、

首尾よく東大に入学することができた。

 

なぜ自信満カの私がわざわざ商業学科を選んだかというと、

経済学科に比べて競争率が低く、

まかり間違えても失敗することはないだろうと踏んだからであった。

生意気盛りの私は誰にも負けないという自信があったが、

それはあくまで日本の一植民地にすぎない台湾という

田舎舞台においてのことであった。

内地に行けば、一高、東大というエリート・コースを

スイスイと泳いであがる秀才たちがたくさんいるときいたし、

ナンバー高校の秀才たちも手強いライバルであるに違いない。

 

なにせ東大の合格率を見ると、ドン尻が学習院高等部で、

ブービー賞をもらえる位置にいるのが台北高校と来ている。

そんな片田舎の高校で"お山の大将"をきわめたからといって、

そうそう調子に乗ることもできまい。

一見、無謀なように見えても、

いざとなったら用心深くなる私の性癖が

こんなところにも見えている。

おかげで私はなんなく東大に入学できたが、

のちの人生においてもこの鉄則を守ることによって、

命拾いをしたり、きびしいピンチを切り抜けることができた。」

(「我が青春の台湾・我が青春の香港」)

 

「一見、無謀なように見えても、

いざとなったら用心深くなる私の性癖」

との記述は邱永漢のその後の思考や行動を

考える上で、きわめて重要な指摘です。

 

ちなみに、同級生の王育徳は

東大経済学部経済学科を志望して不合格になり、

翌年、文学部に転じて

中国文学を専攻するようになりました。