邱炳南(邱永漢)は東大受験のため、

内台航路で日本内地に向かうことになりました。

この時、育ての母、陳燦治(タァンツァンテイ)が

基隆(キイルン)港まで送ってくれました。

 

その時様子を次のように書いていますが、

邱永漢の青春期のなかで最も感動的なシーンだと思います。

 

「私が東京の大学へ行くことがきまると、

何十年間、墓参りのために鳳山(ほうざん)まで行く以外は

台南市を離れたことのない、もう一人の母が

私を基隆(キイルン)港まで送って行くと言い出した。

 

あるいは、彼女の直感で、もうこれで

この息子とも会えなくなるのではないかと思ったのかもしれない。

彼女の足にはまだ纏足の跡が残っていて、

小さな靴でよちよち歩くことしかできなかった。

 

その小さな足並みに調子をあわせながら、

私たちは岸壁まで歩き、私だけ内台航路の船に乗り込んだ。

 

もうその頃には、戸籍法と戸口法を結ぶ新しい法律が成立し、

父は長い間、私生児になっていた妹以下を、

認知するために母の久留米市の籍に移っていた。

私の姉は日本人と結婚して台湾から籍を抜いたので、

私と私を育ててくれた台湾人の母親だけが

台湾の邱家の籍に残される形となった。

 

私とは何の血のつながりもない母親だったが、

私にとっては生みの親よりも、もっとずっと大切な母だった。

いよいよ別れの時が来た。私はデッキに立って、

見送る人たちの姿が識別できなくなるまでずっと手をふっていた。

とうとう誰も見えなくなってしまった。

そして、私はついに再びこの世でこの母と会うことはなかった。

東大在学中に、母の訃報をきいた。

物資の不足している東京にいる息子のために、

手術室の中でも、手をあげて夢うつつのまま、

豚デンブをまぜ続けていたと父親の口からきいたのは、

終戦後、台南の家へ帰ってからのことであった。」

(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)