難関中の難関であった台北高校尋常科の

邱炳南(邱永漢)は見事、合格するのですが

この試験の時の家族の緊張や合格した時、

大喜びする様子を『わが青春の台湾・香港』で

邱は次のように描きました。

 

「生まれの十三歳で、

受験番号十三番の私は母親に伴われて

生まれてはじめて台北市へ出かけ、

小学校とは比べ物にならないほど立派な教室で試験を受けた。

私は少しも動じなかったが、母親は私がドキドキしないように、

ふところの中から錠剤を出して『これを飲むと落ち着くから』

と受験前に私にこっそり渡した。

救心の錠剤だった。

飲まなければならなかったのは母親のほうだったと思うが、

とにかくこうしたおまじないの効果もあって、

私は『台南新報』の漢文版で、秀才と報じられた。

父がその新聞を見て、

『お前のような餓鬼が何で秀才なものか』

と一笑に付した。

父の頭の中にある秀才とは、

清朝時代の科挙の試験に合格した者のことであった。

状元、榜眼、探花、秀才と区別はあるが、

一番どん尻の秀才に合格しただけでも町をあげての大騒ぎになった。

それに比べると、何とも頼りない秀才だったが、

その時の父の笑顔といったらいまでも忘れられない。」

 

のちに邱永漢の長女邱世嬪が書いた

『七転び 八起き Q転び』(1987年・昭和62年)に

「十三番は父のラッキーナンバー」という言葉がありますが

その淵源はこの台北高校尋常科の入試体験だと思います。

 

ちなみに試験前に出会った王育徳少年は

不合格の憂き目に会いました。

しかし、その3年後、台北高校の入試にに合格し、

邱の学友として同窓生活を送ることになります。