「母はさきにも述べたように

教育熱心だったから、まず私を幼稚園に入れた。」

(『わが青春の台湾、わが青春の香港』)

 

ただ、邱家には心配事がありました。

息子の邱永漢が病弱だったということです。

 

後年、このことを書いています。

例えば『死ぬまで現役』(1989年。実業之日本社 )。

 

「ふりかえってみると、

子供の時は身体が弱くて

いつも病気ばかりしていた。

小学校に入るまでに3回も入院し、

まともに育たないのではと言われた」

 

また『私は77歳で死にたい』( 1993年。中経出版)でも

「育ち盛りの頃、私は身体も弱かったので

スポーツには全然自信がなかった」

と書いています。

 

それぞれの本の中に幼少期のこととして

それ以上の記述はありませんが、

高校一年生(16歳)に台湾から日本内地に旅行し、

京都に行き、生命の恩人を訪ねています。

 

「京都には、母親の友達で、

ご主人が陸軍軍医少将をやっている人の家があった。

ご主人の軍医さんは、私の生まれ故郷の台南市に駐在した時、

病弱だった私の身体を治療してくれた生命の恩人であるが、

日支事変の上海に出征していて不在だった」
(「目下、ワインを勉強中です」。
『ダテに年は取らず』《昭和58年。PHP》に収録
)。


 これらの文章から、幼少期病弱であった

邱は日本の軍医に助けられたことがわかります。

ここから一つの推理が浮かんできます。