一方、邱永漢(本名、邱炳南(へいなん))の母親は

堤八重といい、福岡県久留米市東町の人です。

 

堤八重は製粉業を営んでいた堤辰次郎と

祖母の長女として久留米で生まれました。

しかし、生後すぐに、堤辰次郎が他界したので

祖母は八重を連れ、台湾の台南市で

牛肉店を経営していた安武捨次郎に嫁ぎます。

 

安武捨次郎が台湾、台南市に住んでいたのには

日露戦争(1904年(明治37年) - 1905年(明治38年))

が深くかかわっています。

 

「牛肉の店をもっていた安武捨次郎という私の祖父は、

日清戦争後、台湾を接収するために北白川宮能久親王が

澳底(オウテイ)というところへ上陸する時の

一番ボートに乗っていた下士官で、

その時の功労を認められて、台湾に定住するにあたって

開墾用の土地三百町歩の払い下げを受けた。

台南市から少し北に向かった新化(シンカ)というところにあって、

そこで牧場をひらき、和牛を日本から運んできて

飼育する事業に従事していた。」

(邱永漢著『わが青春の台湾、わが青春の香港』)

 

安武家に嫁いだ祖母は、三女一男をもうけますが、

連れ子だった八重は東京の東京女子高等商業学校で学び

専門教育を受けた後、台南市に帰り、

親が経営している西門市場の牛肉屋の手伝いをました。

 

この西門市場には邱の父親である邱清海が

野菜類の商売をおり、その縁で、

母、堤八重が邱清海と知り合いになりました。

このことを、邱永漢は次のように回想しています。

 

「親の手伝いをしているうちに、

ハンサムでよくもてる父と知り合いになり、

うまく言いくるめられてしまったのではないかと思う。」

「『台湾人と一緒になるなんてとんでもない話だ。

しかも選りに選って結婚している男にだまされるなんて』というのが、

当時の安武の一家の空気だったに違いない。

結局、母は親から勘当され、家をとび出して

父と同棲することになった。大正七、八年の頃のことである。」

(同上)

 

というのも、邱清海はすでに台湾人の女性と結婚していたからです。