「日本人はグループ・アニマルで、
個がなくて集団の総意があり、
その総意が個人の規範となっているのである」
と邱永漢さんは述べました。

そのことについて、邱さんは次のように
補足しています。
「このことは、日本人が何を恐れるかを
見ればよくわかる。
たとえば、個人主義の国では、
個人に対する最高の刑罰は死刑である。
日本にももちろん昔から死刑という刑罰はあるが、
日本人の場合は、切腹という特異な自殺の
形式がある。

集団のおきてにそむいた者が
自分の過ちを認める証拠として、
もしくは生き恥をさらさない措置として、
自分の命を絶つのである。

たとえそれが強制された形のものであるにせよ、
自殺の形式をとったというのは世界中どこもない。
西洋人から見ると、これこそまさにオドロキである。

(中略)日本人は集団に対して自分の責任を
はたせないことがわかった時、一死をもって
天下に謝罪する。

したがって日本人は死を恐れず、
むしろ死を恐れることを恥とする。

日本人の行動の基準は、
宗教でもなければ、利害でもなく、
本質的には何を恥とするかという意識である。

この意味で、日本の文化は『恥の文化』と
読んでいいのではないかと思う。
生き恥をさらしておめおめ生き延びるよりも
死を選ぶが日本人の生活信条である以上、
日本人が最も恐れることは『死』ではなくて、
『仲間はずれ』にされることである。」
(「経済一等国 日本」。『香港の挑戦』所収)

この邱さんの見方、考えは「恥の意識」
(『食べて儲けて考えて』)として
くくられた一連のエッセイでも述べられています。