邱永漢さんの「実業家の伝記について」が載せられている
『世界の人間像5』には二人の日本人の伝記が掲載されています。
渋沢栄一と村山龍平です。
この二人にはれぞれぞれの足跡を伝える記念館があり
それぞれの記念館が伝える紹介文を抜粋することで、
二人のプロフィール紹介に代えます。

まずは渋沢栄一から。
「・渋沢栄一は1840(天保11)年
現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれました。
・家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、
幼い頃から父に学問 の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から
本格的に「論語」などを学びます。

・「尊王攘夷」思想の影響を受けた栄一や従兄たちは、
高崎城乗っ取りの計画を立てましたが中止し、京都へ向かいます。
・郷里を離れた栄一は一橋慶喜に仕えることになり、
一橋家の家政の改善などに実力を発揮し、次第に認められていきます。
・栄一は27歳の時、15代将軍となった徳川慶喜の実弟
・後の水戸藩主、徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を
見学するほか欧州諸国の実情を見聞し、
先進諸国の社会の内情に広く通ずることができました。

・明治維新となり欧州から帰国した栄一は、
「商法会所」を静岡に設立、その後明治政府に招かれ
大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わります。
・1873(明治6)年に大蔵省を辞した後、栄一は
一民間経済人として活動しました。

そのスタートは「第一国立銀行」の総監役(後に頭取)でした。
・栄一は第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による
企業の創設 ・育成に力を入れ、また、
『道徳経済合一説』を説き続け、生涯に約500もの
企業に関わったといわれています。
・栄一は、約600の教育機関 ・社会公共事業の
支援並びに民間外交に尽力し、多くの人々に惜しまれながら
1931(昭和6)年11月、91歳の生涯を閉じました。」

続いて村山龍平。
「村山龍平翁(1850~1933)は、
嘉永3年(1850年)伊勢国田丸に生まれ
紀州藩旧田丸領に仕えた旧士族。
明治維新後、一家を挙げて大阪に移住。
明治、大正、そして昭和の初頭、我が国激動の時代を生き、
そのたくましい開拓者精神と、
卓越した指導力をもって朝日新聞を創始。
これを育成し、「朝日」を世界に誇る大新聞に
仕立てあげられた新聞界の英傑として知られています。
また、社会事業、文化事業にも多大の御功績を残されています。」