檀一雄が退院することになり

邱永漢先生の小説を雑誌社に売り込んで切れた

そして師匠の佐藤春夫邸への訪問を誘われました。

 

「やがて檀さんは退院できることになり、

慶応病院から石神井公園のお宅に戻ったが、

あとできいたところによると、

家へ真っ直ぐ戻らず、退院したその足で、

新潮社を訪れて、私の原稿を『新潮』の編集者に

売り込んでくれたそうである。

 

しかし、それらの原稿は、

檀さんの強い推輓にもかかわらず、

長い間、お蔵にされたままだった。

編集者というのは、無名の作家にはまことに冷たいもので、

新人の発掘を志しているというけれども、

自分の目に自信をもっていないものが多いから、

自らすすんで冒険はやりたがらない。結局、私の

『刺竹』という小説が『新潮』に掲載されたのは、

それから一年半以上もたって、

私が直木賞を受賞してからのことであった。

 

ある日、檀さんは、師匠のところへ行くから、

一緒に行かないか、と私を誘ってくれた。

師匠とは、佐藤春夫先生ことである。

佐藤春夫といえば、『さんまの歌』を

中学時代の国語教科書で習ったばかりでなく、

文学少年だった頃の私が愛唱した

幾多の珠玉の様な詩の作者である。

 

『殉情詩集』とか『車塵集』とかを、

私は諳んじることができたし、

『酒、歌、煙草、また女、ほかに学びしこともなし』

なんていうのは、いまも覚えている。

 

また『女誡扇綺譚』とか『霧社』は

私の故郷を旅行したときの産物であり、

確か谷崎潤一郎の夫人に横恋慕して失恋していた直後

南方旅行を試みたと何かで読んでいたから、

 

その頃の作品ということになる。

その後、恋が成就して、大正末期に、

三人連名で、友人たちに、

女房を譲渡する旨の挨拶状を出したことで

世問の物議を醸した。

そんなプライベートなことまで知っているのは、

私が佐藤先生の熱心なファンだったからであろうが、

まさか自分がそういう偉い先生のところへ

連れて行かれるようになるとは思ってもいなかっただけに、

胸のとどろくのを禁ずることができなかった。」

(『邱飯店のメニュー』)