大先達から激励されたという知らせは

この先どう生きていけばいいかと迷っていた

29歳の邱炳南(邱永漢)にとって

大きな勇気づけになり

「ひょっとしたら小説家になれるかもしれない」

という気持を抱かせました。

 

さて、自分の筆名をどうするかが難問でした。

 

「私はすぐに、西川氏に礼状の手紙を書き、

ペンネームを何にしたらよいかということと、

香港には上等の原稿用紙がないから、

東京から送ってもらえないかとおねがいしました。

 

私の本名は邱炳南といって、。

邱という字も炳という字も

当用漢字に慣れた戦後っ子には読めない字だが、

私がペンネームを使う気になったのは

別の理由からであった。

 

といのは、私の書いた小説は

その7年前に台湾で起こった

2・28事件という台湾の暴動事件を扱ったものであり、、

もしこの小説が発表になって、作者が誰か調べられたら、

台湾にいる両親や兄弟に累が及ぶのではないかと

心配になったからであった。

 

そこで――私は苗字はそのままでいいとしても、

少なくとも名前は変える必要を感じ

いくつか候補になる名前を考えた。

その中の一つに「丘青台」というのがあり

西川さんも賛意を表してくれたので、

雑誌社にもその筆名で原稿を渡してもらったのだが、

香港で毎日毎日この「丘青台」という名前を見ていると、

ロマンチックというか少女趣味というか、

どうも革命家や亡命者に似つかわしくない名前なので、

そこでまた西川さんに航空便を出し、ペンネームを

「邱永漢」に直してくれるように頼んだ。

 

西川さんはすぐに雑誌社に連絡をしてくれたが、

表紙はすでに刷り上ったあとだったので

私の第一号の小説は、表紙の筆名と

中身は筆名がチグハグというおかしな

結果になってしまった。」

(『私の金儲け自伝』。昭和46年)