日本から香港への帰りの船で

邱炳南(邱永漢)は文芸誌を通して

大学の先輩筋に当たる檀一雄が

人気流行作家として活躍していることに

目を見張りました。

 

「同じ経済学部の二年上に、

同じ台湾から留学にきていた郭徳棍という友人がいた。

この友人が、あるとき、私に、

『芥川賞の候補になった若い小説家に、

檀一雄さんという人がいる。

まだ名前が出かかった程度の駈け出しだけれど、

知り合いになっておいたらどうだい?』

なんでも、東亜経済研究会というのができ、

誰かの口ききで、そこの嘱託になっている人だそうである。

 

私自身、文学青年であったが、

文学で飯を食っていけるとは露ほども思っていなかったし、

小説家と知り合いになっても仕様がないと考えていたので、

暖昧な返事をしただけで、本人とは遂に顔を合わせなかった。

 

ところが、戦後、香港と日本の間を往復するようになって、

帰りの船の中で読む本を買おうと思って、

本屋に出かけて行ったら、『オール読物』を見ても、

『小説新潮』をめくっても、

檀一雄という名前が盛んに出てくる。

あるときなど、神戸の本屋に入って、

『文嚢春秋』をめくっていたら、

捕鯨船に乗って南氷洋に行った檀さんのルポが載っていて

『この人、人気作家になったんだなあ』

と漸く実感が湧いてきた。」

(『邱飯店のメニュー』)

 

以下は同趣旨の記述です。

 

「東京から香港へ帰る時は、

本屋にとびこんで山ほど新刊書を買った。

二、三ヵ月香港にいる間、

退屈をしのぐ必要があったからであった。

『文藝春秋』『オール讀物』や『小説新潮』も買った。

目次をひらくと、どの雑誌にも檀一雄という名前が出ている。

 

大学生の頃、知り合いになるチャンスがあったのに、

我がまま言って尋ねて行かなかった人だったが、

いまや押しも押されもせぬ

大流行作家になっているのがわかった。」

(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)

 

檀一雄の年譜を見ると

S25年(1950年)に「リツ子」連作を完成し

『リツ子・その愛』、『リツ子・その死』を刊行。

S26年(1951年)に「長恨歌」「真説石川五右衛門」で

第24回直木賞を受賞。

そしてこの年の12月から翌27年4月まで

南氷洋捕鯨船団に参加しているので、

邱が香港行きの船で檀の作品を読んだのは

昭和27年ころのことと思われます。