邱炳南(邱永漢)が東京に預けていた

1000万円は姉夫婦の考えで、

チューウインガム工場の経営に向けられましたが、

その経営は難航しました。

 

「戦後の日本は

アメリカ軍に占領されていたせいもあるが、

文化的にもアメリカの植民地の観があり、

チューインガムやチョコレートを

かみながら道を歩く習慣がハヤっていた。

輸入品のリグレーのチューインガムだけでは

需要を充たしきれなかったので、

醋酸ビニールを原料とした

風船ガムのメーカーがぼつぼつ商売をはじめていた。

 

のちに大メーカーにのしあがったロッテもその一軒である。

私の義兄が引き受けたのはピーチといって、

当時はキングトリス、ロッテ、ハリスと並んで、

いずれもどんぐりの背くらべ的存在であった。

 

しかし、同じ商売をやっても、経営者の才能によって

運命は大きく分かれてしまう。

ロッテのように大企業に成長したものもあれば、

ハリスのように大企業に買収されたものもある。

またキングトリスやピーチのように倒産してしまった例もある。

 

私の義兄は臼田金太郎というウェルター級のボクサーで、

日本拳闘界の草分け的存在であった。

大正十三年のチャンピオンで、

まだリングの紐が一本だった頃の試合の写真が

『拳闘五十年史』の第一ぺージに載っている。

 

ロサンゼルスのオリンピックにも出場しており、

長く不敗を誇っていたが、一回負けてそのまま引退し、

引退後は臼田拳闘道場をつくって、

後進の養成に尽力していた。

 

私の姉と結婚してからは、

姉がボクサーのかもす雰囲気を好まなかったので、

次第に拳闘界から遠ざかり、

とうとう姉の意見に従って

チューインガムの工場の経営をするようになった。

しかし、根が商売人でなかったから、

商売人でない者でも

商売のできた時期には何とか社長業がつとまったが、

混乱期が終わる頃にはもういけなくなっていた。」

(『失敗の中にノウハウあり』)