廖博士が日本に行くことことになり、

台湾の独立運動に従事した人は

香港にほとんどいなくなってしまいました。

 

「廖博士が発つ前の日に、

私たち廖博士にお世話になった人や

つきあいのあった人が廖家に集まった。

私のように日本で勉強した者が日本に行って、

廖博士が香港に残るならわかるが、

日本語もあまり完全とはいえない

廖博士のほうが日本に行くというのだから、

なんとも割り切れない気持であった。

こうして独立運動に従事した人は

香港にほとんどいなくなってしまった。」

(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)

 

さて、昭和25年(1950年)に

日本に渡った廖博士は、

この年京都で「台湾民主独立党」を結成し、

台湾の前途を決める公民投票を

実施することを求めるました。

 

そして昭和31年(1956年)に東京で

台湾共和国臨時政府を樹立して

その大統領を務めるとともに、

政府機関紙「台湾民報」を創刊して

台湾独立を目指しました。