広東人の習慣では新婦の里帰りの際に、

婿のも同行し、両親の前で脆づき、

礼を述ることになっている。

こういう儀式に慣れない邱炳南(邱永漢)は

緊張しました。

 

「さて、嫁入りしてから二晩すぎると、

里帰りの習慣がある。

広東人の女は結婚すると、既婚者用の礼服があって、

それを着て家に帰る。

 

真っ赤な生地の上から

金糸銀糸でぎっしり刺繍が施してあって、

これを嫁入りの時にもってくる。

ちょうど日本の花嫁衣裳に似ていて値段もとびっきり高い。

 

日本では嫁入りの時一回しか着ないから、

いつの間にか貸衣裳ですませるようになったが、

中国では身内の結婚式があったり、

結婚後はじめての正月に里帰りする時に、

金ピカのものを着て帰る。

 

京劇の舞台衣裳を身につけて

お祝い事に駆けつけると思えば間違いない。

家内にとっては子供の時から見慣れた風景だから、

自分がはじめて着るというだけで、

どうということはなかったが、

私にとっては気の重いことであった。

 

兄弟たちと大喧嘩をしたあとということもあるが、

里帰りの時には、両親の前に脆いて

お礼を述べるという習慣がある。

 

畳の上に脆くのならともかく、

靴と寝台の生活をしている中国人の床は

チークの板の間か、タイルである。

 

その上に土下座をするのだから、

少なからず屈辱感がある。

皇帝に生命乞いをするわけでもないのに、

『そんなことはとてもできない』と言うと、

『そうおっしゃらないで、

私がやるとおりにやって下さい、それが礼儀なんだから』

と家内はしきりに私に頼む。

 

しかし、私にしてみれば、

家内の家は西洋風の生活をとり入れ、

男女の交際についても

ずいぶんひらけた家風だと思っていただけに、

いざとなったらこんなにも保守的に振舞うのかと改めて驚いたし、

こりゃとんでもない密林の中に迷い込んでしまったなあと

緊張の色をかくさなかった。」

(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)