邱炳南(邱永漢)とともに台湾を脱出し

廖文毅邸に居候した荘要伝は

一カ月もたたないうちに、

香港での活動に限界を感じ、

東京に行って、台湾独立のための活動を

展開したい旨の意思を表明するようになります。

 

「当時の私はまだ二十四歳で、

西も東もわからなかったから、

廖文毅博士の戦略を批判するような立場にいなかった。

 

しかし、荘要伝さんは戦争中、

朝日新聞の特派員として香港に駐在したこともあり、

台湾へ帰ってからも新聞記者をやっている時に

政府の言論統制に不満で職をなげうったくらいだから、

自分の意見もあり、人と妥協しない頑固さもあった。」

(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)

 

「荘さんは約一ヵ月ほども香港にいただろうか。

はじめて廖さんが台湾独立ののろしをあげた時は

ニュース・バリューがあったから、

各通訊社が喜んで取り上げてくれたが、

二回目、三回目になると、新聞にも出ないようになった。

 

それでも廖さんは懲りずに、

APやUPの支局長に会い、

また定期的にアメリカをはじめ

各国の政府にあてて請願書を発送していた。

 

その活動の範囲と力量のほどが

だんだんわかってきた荘さんは、

『自分がここにいてもやることはない。

日本に行ってマッカーサー元帥に働きかけたり、

日本にいる台湾人を糾合する運動をしたい』

と言い出した。」

(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)