昭和21年、22歳の邱炳南(邱永漢)は
のちに香港に亡命するとき、居候することになる
廖文毅氏が台北市内で主宰いていた「省都無力者会議」
に参加します。
「私は弟の友人の日本人が
引き揚げたあとの大安十二甲という
ところにある住宅を占拠していたが、
いくら家賃がただ同様であるといっても、
いつまでもブラブラしているわけにはいかなかった。」
(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)
「すでに台北にはアメリカの領事館が開かれ、
なんと副領事として、高校時代、
私たちに英語を教えてくれた
ジョージ・カー先生が赴任してきていた。」
(同上)
「また同じ頃、廖文奎、廖文毅兄弟が
上海から台湾へ帰ってきていた。
廖兄弟は台南州の西螺(せいら)という
地方の大地主の息子で、二人とも博士号をもっていた。
文奎さんはシカゴ大学を卒業して金陵大学で教鞭をとり、
『韓非子』の英訳をしたほどの学者であった。
弟の文毅さんは、、ミシガン州立大学を卒業したエンジニアで、
どちらかというと実務肌というよりは政治家肌の人であった。
二人とも大陸からアメリカに留学したので
中国語と同じように英語をペラペラ喋り、
われわれとはまったく異なる経歴の持ち主であった。
また二人ともアメリカ人の奥さんを持っていた。
したがって本来なら二人とも「半山仔」として
国民政府の飼犬の役割をはたす資格があったが
二人ともアメリカ的な自由と平等と民主の空気を吸って育ったから、
時の政府の飼犬になることを肯んじなかった。
文奎さんは上海に住んでいて時々、
台湾に帰ってくる程度であったが、
文毅さんは家族を連れて台北へ戻り、
私の住んでいるすぐ近くの豪邸に居を構え、
城内の事務所で『前鋒』という小雑誌を発行していた。
廖文毅さんはその雑誌を使って
政府から無視されている不平分子を集め、
「省都無力者会議」と名づけた定期的な座談会を開いていた。
どんなことをやっているのだろうかと興味を抱いて、
私も時々覗きにいったが、東大を出ていたとはいえ、
私はまだ二十二歳の若僧だったから、
いつも片隅のほうに小さくなって坐っていた。
はじめて会った文毅さんはコールマン髭を生やし、
蝶ネクタイ、それに麻の白いスーツを着て、
いかにも洋行帰りというスタイルだった。
こんな人がどうして国民政府の仲間にならないで、
わざわざ無力者の味方をするのか私には不思議でならなかった。」
(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)
邱永漢思想研究家。経営コンサルタント。問題解決・意思決定の研修講師。昭和18年3月生まれ。昭和40年、東京大学経済学部卒業。同年、八幡製鉄(現新日鉄)入社。平成6年、新日鉄部長を経て、研修業に転じ、現職。以来、邱永漢作品のエッセンス本『原則がわかれば生き残れる』、『アジアの曙』、『生きざまの探求』、『新・メシの食える経済学』(以上、グラフ社)を編集、解説。平成13年『あなたも賢者になれるー私は邱永漢さんの知恵を借りた』(グラフ社)を刊行。邱永漢思想の探求をライフワークとし、その一環として、各地でセミナーを開催。「株式投資の原則」などの通信セミナーも実施。