昭和21年春、台湾に帰ってきた
邱炳南(邱永漢)、(当時22歳)は
台湾省財政庁に3か月勤務。
また、私立大学が認可されるまでの間の
腰掛として、大同中学で英語教師として
3か月勤務。
こうして、台湾での生活が
半年ほどして経過するうちに、
中国大陸から台湾に入ってきた国民党政府は
日本留学組を政府のポストから
締め出すことにしていることが見えてきました。
「約半年以上もウロウロした結果、
私にわかったことは、
大陸から乗り込んできた政府は、
台湾人の知識階級を目のカタキにしているということであった。
形ばかりの省参議会とか、
南京政府への参政員を選挙したりしたが、
その選出にあたっては、
大陸から一緒に政府について帰ってきた
台湾出身者を優先させ、
日本時代からずっと台湾に住んでいる
知識階級や有力者をできるかぎり、排除しようとした。
台湾人たちは、大陸のことを
「長山(トンスウア)」と呼んでいたから、
大陸から戦後わたってきた外省人を
「阿山仔(アースウア ア)」(山の人)と呼び、
彼らについて帰ってきた台湾人のことを
「半山仔(ボアスウア ア)」(半分、山の人)と呼んでいた。
そのいずれにも、侮蔑的なニュアンスが
こめられていたことはいうまでもない。
省参議会議長をつとめた黄朝琴、
華南銀行董事長(頭取)をつとめた劉啓光、
のちに内政部長(内務大臣)をつとめた連震東、
ずっとのちに副総統をつとめた
謝東閔(とうびん)といった人々は、
いずれもこの「半山仔」に分類される。
こういう人々は日本統治時代に
日本人に反抗して大陸に逃げた人々だが、
ただそれだけの理由で、抗日戦争に従事した功績を買われ、
帰台して論功行賞の対象になったようなものであった。
その分だけ日本帰りは存在を無視されただけでなく、
すべての政府のポストから締め出された。
まったく利権と関係のない教員をやるとか、
でなければ商人になるかのどちらかしか、
道は残されていなかった。」
(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)
邱永漢思想研究家。経営コンサルタント。問題解決・意思決定の研修講師。昭和18年3月生まれ。昭和40年、東京大学経済学部卒業。同年、八幡製鉄(現新日鉄)入社。平成6年、新日鉄部長を経て、研修業に転じ、現職。以来、邱永漢作品のエッセンス本『原則がわかれば生き残れる』、『アジアの曙』、『生きざまの探求』、『新・メシの食える経済学』(以上、グラフ社)を編集、解説。平成13年『あなたも賢者になれるー私は邱永漢さんの知恵を借りた』(グラフ社)を刊行。邱永漢思想の探求をライフワークとし、その一環として、各地でセミナーを開催。「株式投資の原則」などの通信セミナーも実施。