昭和20年に「壕舎生活者の実態・輿論調査」が

4大新聞でも紹介されたことに気を良くして

邱炳南(邱永漢)は翌年1月、上野の地下道で

ごろ寝している浮浪者を対象に同様の調査活動を

始めたが、台湾に帰ることができると

いう知らせが舞い込み、

昭和21年2月、日本女子大で学んでいた

次女、孝子氏と台湾に帰ることを決めました。

 

「突然、朗報が私のところへとび込んできた。

台湾からの引揚げ者を乗せるために横須賀港から船が出る、

その船に乗れば台湾へ帰れるから、

早く用意するように、ということだった。

 

待ちに待ったその日が来た。

三月を前にして、妹は日本女子大の卒業式に

全校の卒業生を代表して謝辞を読んだ。

抜群の成績だったからであろうが、

堤孝子というれっきとした日本人だったせいもあろう。

 

しかし、戦争が終わってみれば、

妹も邱家の二女であった。

邱素沁(そしん)という中国名前は私がつけた。

それがその後の彼女の一生の名前になった。

卒業証書をもらうと、彼女も

私と同じ船で台湾へ帰ることになった。

 

見渡す限り焼野が原になった東京の街角に立って、

私はいったいいつになったら、

日本は昔のような日本に戻るのだろうか、

と首をかしげながら、道行く人を眺めていた。

五十年はかかるだろうと言う人もあった。

いや、百年は無理だろうと

もっと悲観的な論調も新聞に載っていた。

 

そう言われても不思議ではないほど見渡す限りの廃墟であった。

荒れはてたこの廃墟をめざして、

次から次へと海外から日本人が帰ってくる。

こんな狭い国土で、こんな仕事もないようなところで、

どうやって八千万人からの人口を養っていくつもりだろうか。

自分は年に二回もお米のとれる熱帯の台湾へ

これから帰るからいいようなものだけれど、

日本国内にとじ込められた日本人は、

はたして餓死の恐怖にさらされないですむのだろうか。

母の国である日本の将来のことを思うと、

私は身震いを覚えると同時に、

だんだん空おそろしくなってきた。」

(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)