前回に続き、邱永漢が台北高等学校に進学した16歳から
3年間の高校生活を経て東京帝国大学に進学する18歳までの
略年譜をご紹介します。
1940年(昭和15年)(16歳)
【1月】西川満が雑誌『文芸台湾』を創刊する
【3月】台北高等学校文科甲類(英語)に進学する。
4連12行の文語詩、「夜の頌歌」(よるのしょうか)を
『台湾日日新聞』に発表。
3連9行の文語詩「鳳凰木」(ほうおうぼく)を
『文藝台湾』第2号に発表。
【7月】5連25行の文語詩「戎克」(じゃんく)を『文藝台湾』第4号に発表。
【夏】 夏休み、台南の家に帰らず母に無心して150円を送金してもらい
内台航路で神戸港にわたり、東京、京都、大阪を旅行。
【10月】5連21行の文語詩「米街」を『文藝台湾』第5号発表。
1941年(昭和16年)(17歳)
【4月】台北高等学校2年生となる。
【7月】5連10行の口語詩、「霧」および5連12行の口語詩、
「家鴨」を台北高等学校文芸部機関紙『翔風』(しょうふう)
22号に発表。
【8月】6連22行の口語詩、「雨愁」を『翔風』23号に発表。
評論「文学的処女地」を『台湾日日新聞』に発表。
【12月】大東亜戦争が始まり、学校から台湾神社に戦勝祈願のため参拝する。
1942年(昭和17年)(18歳)
【4月】台北高等学校3年生になる。
【8月】5連39行の口語詩、「書物」を『翔風』24号に発表。
大東亜戦争のため台北高等学校を繰り上げ卒業し、
夏休みから大学受験のため上京する。
【10月】東京帝国大学経済学部商業学科に進学する。
以上です。
3年間の高校生活を経て東京帝国大学に進学する18歳までの
略年譜をご紹介します。
1940年(昭和15年)(16歳)
【1月】西川満が雑誌『文芸台湾』を創刊する
【3月】台北高等学校文科甲類(英語)に進学する。
4連12行の文語詩、「夜の頌歌」(よるのしょうか)を
『台湾日日新聞』に発表。
3連9行の文語詩「鳳凰木」(ほうおうぼく)を
『文藝台湾』第2号に発表。
【7月】5連25行の文語詩「戎克」(じゃんく)を『文藝台湾』第4号に発表。
【夏】 夏休み、台南の家に帰らず母に無心して150円を送金してもらい
内台航路で神戸港にわたり、東京、京都、大阪を旅行。
【10月】5連21行の文語詩「米街」を『文藝台湾』第5号発表。
1941年(昭和16年)(17歳)
【4月】台北高等学校2年生となる。
【7月】5連10行の口語詩、「霧」および5連12行の口語詩、
「家鴨」を台北高等学校文芸部機関紙『翔風』(しょうふう)
22号に発表。
【8月】6連22行の口語詩、「雨愁」を『翔風』23号に発表。
評論「文学的処女地」を『台湾日日新聞』に発表。
【12月】大東亜戦争が始まり、学校から台湾神社に戦勝祈願のため参拝する。
1942年(昭和17年)(18歳)
【4月】台北高等学校3年生になる。
【8月】5連39行の口語詩、「書物」を『翔風』24号に発表。
大東亜戦争のため台北高等学校を繰り上げ卒業し、
夏休みから大学受験のため上京する。
【10月】東京帝国大学経済学部商業学科に進学する。
以上です。
邱永漢思想研究家。経営コンサルタント。問題解決・意思決定の研修講師。昭和18年3月生まれ。昭和40年、東京大学経済学部卒業。同年、八幡製鉄(現新日鉄)入社。平成6年、新日鉄部長を経て、研修業に転じ、現職。以来、邱永漢作品のエッセンス本『原則がわかれば生き残れる』、『アジアの曙』、『生きざまの探求』、『新・メシの食える経済学』(以上、グラフ社)を編集、解説。平成13年『あなたも賢者になれるー私は邱永漢さんの知恵を借りた』(グラフ社)を刊行。邱永漢思想の探求をライフワークとし、その一環として、各地でセミナーを開催。「株式投資の原則」などの通信セミナーも実施。